さようなら、野村監督

こさいたろうの視点・論点 0127

2020/02/14

さようなら、野村監督

僕は野村克也監督に、一度もお会いしたことはありません。でも、僕の人生において、いつもそばにいて、励ましてくれたり示唆を与えてくれたりしていた気がするのです。

僕は今から40年以上も前、ヤクルトスワローズのファンになりました。振り返ると、いくつかの理由が思い当たります。

まず、父が強烈なアンチ巨人だったこと。二つ目に神宮球場の近くに住み、初優勝は目の当たりにしたこと。三つ目は、父が「太郎君よく勉強せよ」という若松勉選手のサイン色紙をもらってきてくれたこと。

それと、当時年会費1,500円の子ども向けのファンクラブに入りたくて、お手伝いで小銭を貯め、神宮球場正面の窓口に行ったとき、なんと数円足りず。でも、窓口の大人の方は、入会の手続きをしてくれました。そして、入会記念でガラガラのくじを回し、これまたなんとサイン入りバットが当たったのです。記憶がだいぶ薄れていますが、そんなこともあり、ヤクルトにハマっていきました。ちなみに、当時は、巨人戦以外は子どもファンクラブ会員は外野出入り自由。今は、夜に小学生が出歩くのはまずいのかもしれませんが、あの頃はそれほどうるさくなかったのか、ちょくちょく球場に足を運んでいたのでした。

しかし、広岡監督の下での劇的な初優勝の後、わがヤクルトスワローズは暗黒時代に突入したのです。武上、土橋、関根の各氏が監督を任されるものの、万年最下位のようなチームに成り下がってしまったのです。

僕は子どもだったので、なぜこんなに弱くなってしまったのか、よくはわかりませんでしたが、それでも大好きなことは変わらず、応援し続けました。たまに巨人戦などに行くと、神宮なのにライトスタンドの半分以上まで巨人ファンだ埋まっているようなありさま。悔しいけれど、それでも声を張り上げて応援してたっけ。

前置きが長くなってしまいましたが、そんな時代を経て、野村監督がヤクルトスワローズにやってきてくれたのでした。僕はすでに20歳の時。テレビ朝日の野球中継、野村スコープのおじさん。素人でも引き込まれる理論や分析を展開していたこの人なら、何か変えてくれるかもしれない、そう思いました。

1990年に監督になり、3年後の1992年、念願のリーグ優勝を果たすのです。三年待ってほしい。種をまき、水をやり、花を咲かせる、と。有言実行でした。暗黒時代、隠れるように応援を続けたファンにとって、まさに救世主でした。

ひいきのチームをただ強くしてくれたことにとどまらず、けがで復帰が絶望視されていた荒木や高野を復活させ、飯田や秦は捕手から外野手へのコンバートで才能を開花させ、小早川や辻、吉井など他チームで戦力外となったベテラン選手たちの力を引き出していきました。多くの選手たちを再生させていく姿に心惹かれました。

それは、野村監督が単に野球の理論や分析に長けているということにとどまらず、選手たちが人として輝けるようにという愛情あふれる人物だったからに他ならないと僕は思っています。

亡くなられた今、たくさんの教え子たちが追悼の言葉を発しています。こんなに多くの教え子がいたということに、改めて驚かされます。「財を残すは下、事業を残すは中、人を残すを上とす」、野村監督が目指したもの、見事に人を残されました。こんな野球選手はいまだいなかったし、これから先もなかなか現れないものと思います。

それに較べてこの俺は。較べるのもおこがましいですが、いまだ「下」にも至れない自分を恥じ入るばかりです。

京都の寒村、高校進学も危うかった極めて貧しい母子家庭で育ち、南海球団にテスト生として入団も一年でクビ寸前となり。そんな逆境から這い上がってきた野村監督。だからこそ、人にやさしいのだと、僕なりに感じ取っていました。

これも、ぬくぬくと育ってしまった自分にないもの。遅ればせながら、おまえは今から出発せよ、ということを教えてくれていなのだ思います。

息子もノムさんが大好きでした。話し方やボヤキを面白がっていたというのもありますが、子どもなりにノムさんの発言を受け止め、理解していたのだと思います。「失敗と書いてせいちょうと読む」。そんなノムさんの心が、けがれなき子どもには伝わるのだと思います。字の本をなかなか読まない息子。ぜひノムさんの本を読んでみれば、と伝えてみました。そして僕も、もう生の声を聞けなくなってしまった今、まだ読んでいない野村監督の本を読んでみようと思います。

さみしいですが、さようなら。野村監督。

農夫 こさいたろう(小斉太郎;元 港区議会議員)

   

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