「車を運転しなくても生活に支障がない社会」は作れるのだろうか

 

こさいたろうの視点・論点 0095

2019/05/21

 

「車を運転しなくても生活に支障がない社会」は作れるのだろうか

 

高齢者ドライバーによる痛ましい交通事故が後を絶たない。池袋で起きた母子死亡の交通事故の後、高齢者の運転免許証自主返納数が増加しているようだ。車を運転しなくても生活に支障がない高齢者の方々には、ぜひ車の運転を卒業してもらうべきだと思う。これだけ高齢者ドライバーによる事故が頻発している現状を考えると、やむを得ない。高齢者の方々自身にとっても、人生の晩年に人殺しとなってしまうリスクを負うべきではないはずだ。

 

ただ、「車を運転しなくても生活に支障がない」というところが問題となる。僕のように田舎に住んでいると、平日の昼間、車を運転している人のほとんどが高齢者と言っても言い過ぎではない。

 

運転している高齢者は二種類に大別できる気がする。一つは、もともと地元の人で、農作業やら通勤やら、仕事に車を使っている人たち。もう一つは、定年後に移住してきたような方々で買い物などの生活の足に浸かっている感じの人たち。それぞれ生活に欠かせない「足」ということになる。

 

さらに、運転スタイルも二つに大別できる気がする。一つは、ものすごく安全運転、実際はゆっくり過ぎて逆に危険か、というような人たち。もう一つは、自信満々、スピードも結構だして傍若無人といった運転の人たち。正直、どちらのパターンであっても、「大丈夫だろうか」と思わされることが少なからずある。それでも、生活の「足」なのだ。

 

「明日は我が身」とまではいかないが、遠くない将来、僕もこのように言われる年齢に必ずなる。現在の居住地に住み続け、田畑の世話も続けるということになれば、車の運転をやめるわけにはいかなくなる。やめろと言われれば、買い物に行くのもままならず、仕事も大方終わりにしなさいと宣告されるに等しい。

 

この田舎で、今の高齢者に、こんな宣告ができるだろうか。かなり厳しいものがある。でも、私が高齢者の仲間になるころまでには、解決しなければならない問題であることは間違いない。限界集落、家族のあり方の変化、人口減少、超高齢化、さらには生活の格差の広がりすらも、深く関わってくるはずだ。

 

日本が目指すべき社会の姿を、政治家は掲げ、議論し、主権者たる国民が決定しなければならない時が、まさに近づいているのではないだろうか。高齢者の自動車の運転をどうすべきかは、こういう大きな社会ビジョンの中に位置づけられるべきだと思う。

 

現時点で、僕が考えるビジョンの柱の一つは「助け合うこと」ではないかと思っている。

 

 

農夫 こさいたろう(小斉太郎;元 港区議会議員)

     

 

 

 

 

 

 

 

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