「みなと打ち水大作戦」に思う
この夏、港区役所が音頭をとって「打ち水」のイベントを大々的にするそうだ。昨年からか、NPOなどの呼びかけにより各地で「打ち水」が盛んに行われている。京都議定書発効による環境問題、特に地球温暖化への関心の高まり、そしてそれ以上に、この数年の都会の猛暑、いや酷暑がそのきっかけになっていると思う。
昨年、銀座で行われた「打ち水」イベントでは、路上で日中最大二℃気温が下がったという。また、一平方bあたり一gほどの打ち水で電力消費量が四%カットできるとの研究試算もあるようで、一定の効果はありそうだ。
なるほど「打ち水」は、私たちの先達が土埃をおさえ、涼を得るために行ってきた知恵なのだ。ただ、その時代は町家が並び、路地裏があり、植木鉢で彩られた軒先、桶にひしゃくの「打ち水」で涼を取りながら、浴衣姿で縁台将棋、なんていうのどかで懐かしい風景だったに違いない。そうだ、先達は「打ち水」だけでなくさまざまな工夫で、目から耳から全身から、涼を感じていたのではあるまいか。単に水をまいて、物理の理論として「涼しくなりました」などというお勉強の世界だけでは語れないはずだ。
現代人が、現代社会で「打ち水」をすることに反対な訳ではない。いにしえの史恵や工夫に学ぼうとする思いには大いにに共感できるし、むしろさらなる広がりを期待する。ただ、ここぞとばかりに役所が出てきて、予算ありきのイベントを開催する。そしてイベント自体が目的化し、本来の責務が見え難くなることを危惧するのである。
「打ち水」に涼を求めようとするならば、「まち」のありようにも目を向けない訳にはいかないはずだ。
コンクリートで固められた道、風をさえぎるように天に伸びるビル、ガスを撒きながら走る車、熱を出して人を冷やす空調、そしてこれらに依存した生活スタイルを変えられない私たち自身、これらが地球温暖化やヒートアイランドといわれる酷暑の根本原因であり、「打ち水」とひきかえに忘れてはならない現実だ。
政治がなすべきは「打ち水」の普及・啓発なのだろうか。「打ち水大作戦」の音頭とりは住民やNPOに任せ、熱をこもらせない道路づくりや車両の流入規制、エコカーの普及、積極的で大規模な緑化、河川の復活と清流化…、なすべきことは無数にある。そして何よりも、これまでの人間の都合優先のまちづくりの思想を大転換すべき、というよりもしなければならないことを、地球は自らの温度を上げることで私たちに伝えようとしているのではないか。
もう遅いかもしれないが、政治は「本質」を見据え、大きく舵を切るべきだ。
(みなとヘラルド論説より)